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16 仏法概要第16講-四諦10

  • 執筆者の写真: Ani Taku
    Ani Taku
  • 2021年9月19日
  • 読了時間: 4分

2305その所縁境は我の本体です,また補特伽羅(プドカラ)で呼びますと,自分の事も言える,それは問題ないです,問題は何処からありますか?もっと深く進んで,我は何のこと?彼は感覚を受けるのことは自方成立です,だから,その面で新しいな成分を加えた,これは間違います,つまり,彼の所縁境は間違えないですが,彼の感覚境は間違えてる。

分析の過程において,彼の感覚境は存在しないです,つまり,彼が新しいの成分を加えたこと,我執や,自方成立な観点は間違います,正しいではないです,ですので,仏法だけは無我の観点を主張する(話します)。仏法除く,無我の観点は他の観点から話しないです。だから,無我を,話すことは仏法の特色です。


そして,初心者に対して,分析する時は,自然に補特迦羅(プドカラ)の我を顕す,または補特迦羅(プドカラ)から実際が有りな観点で呼びます,それは自然で生まれたな見方です,それは補特迦羅(プドカラ)が正しいな示すな意味ではないです,それはどういう事ですか?それは我々には生まれて生まれて,生々世世,何回も生まれ変わってな輪廻転生の習慣に慣れた,いつまでも止まらないな輪廻して,我らは輪廻があります,その様の煩悩があります,だから,生まれ変わることの習慣って,その様の見方(考え方)があります,補特迦羅(プドカラ)は実有な見方があります,ただそれだけです,それ(補特迦羅(プドカラ))が存在しますからいつも様に起きる(顕す)の自分だけです,分析したら我が実有となります,または自分成立な観点は,それは毎回ある事から確実思いました,そうではありません,そのこと,我々にとっては習慣になってたんです,その汚れを染めりに慣れただけです,ですから,常にその様な観点顕す。けど実際には補特迦羅(プドカラ)は無我です,でも,何故ならいつまでも同じ問題起きる(現れた)?それは私たちの熏習(くんじゅう(習気))が原因です,我らが輪廻転生の煩悩で構成されてたんです。


では,我々には常に我執が顕す,執着が常に出る,いつも補特迦羅(プドカラ)が実有の見方です,その時は,我らの見方はどうやって顛倒として証明するか?その際は仏のお経を頼りにする,お釈迦様は話したことがある,自分の証から真実状況の真理です,その様な理由じゃまた足りないです,ただのお釈迦様の話と足りないです,その話以外,自分はもっと深く進んで分析できます,我々には常に思っているの我執、補特迦羅(プドカラ)が実有のことは本当に存在しますか?そして,その際,たくさんの論著に頼り,分析してから,もしその我執が実に存在するならば,確実に存在するの場ならその本質はきっとどんどんはっきりする、どんどん分かり易い、どんどん堅固です,けれど,一旦,分析したら、一旦,論著の理由を運用したら、逆に,我らが思っていたの補特迦羅(プドカラ)が実有のことはもっともっと見にくになる、もっともっと漠然なる、ぼやけることなる,それは何の証明となりますか?それはその事(補特迦羅(プドカラ)が実有のこと)が存在しないです。


補特迦羅(プドカラ)が実有のことまたは自性有のことはその観点は不正解です,だから,仏様と大智者は止まらないようで論著をする,その内容は我らが補特迦羅(プドカラ)が実有のことは間違えたんです,全ては無我です,皆は自性がないです,だから,そのシリーズのお経と論著があります,例えば仏様の般若経,広の般若経,広、中、略の般若経,と龍樹菩薩の中観の著作,または月称菩薩の入中論等等の著作,全集中で説明してます,何を説明しますか?全集中で輪廻な根元の説明する為,痛苦の根元の説明為,それを我々には補特迦羅(プドカラ)が実有のことまた自性有な観点が間違います,全ての論著は全集中してから,ある一つの問題に証明する為です,それが無我のことの観点です。


私たちはある次第とある順番で仏経の学ぶことができたら,どんどんで,どんどんで我執が多分存在しない,我執の境が執着するの境は,自分思った自性有等等,それら多分存在して無い,ゆっくり,ゆっくりと,ある感覚がくる,その本来思っているの観点は存在して無いで思う始まる、間違います!その様な識は顛倒です。

その時は宗派の中には区別があります,もし,中観応成派から話なら,一旦我ら我執を認識しました,その様な識は顛倒識として理解したら,我らはゆっくりと空性のことを認識できる,けど中観自続派以下の観点なら違います,その場は,彼らは細いの我執、細分の我執を発見して,要するに細分の無我を見つけました,そしてゆっくりと理解できる,その際は区別があります,中観応成派の場はそのタイミングがゆっくりで空性を接近していく。


そのタイミングでもっと深く進んで我執は顛倒識として認識する,そして,それと対立できるの智慧は無我です,無我の認識はちょうど我執と真逆です、ちょうど相違です,つまり我執は所縁境な我が直取境である,自方成立である,我は実有の観点はちょうど正しいことでは無いです,さっきの無我と比べると背中から道を走ってる(反対方向に走る)。


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