No.19 第19講-摂類学7
- Ani Taku
- 2022年2月4日
- 読了時間: 28分
o 遠離一切罪 布施諸功德
意味:全ての罪と離れて 全ての御利益を布施(与える)する
o 有情唯依親 頂禮一切智
意味: 衆生の唯一帰依 全ての智を帰命頂礼 註:仏教の礼法の一。尊者の前にひれ伏し、頭を地につけ、足元を拝する最敬 礼。五体投地。ちょうれい。「帰命(きみょう)頂礼」
o 法鼓致深音 願斷有情苦
意味: 法鼓(ほうこ)深く届くよう,有情の苦即断ち切る
o 永(無)盡億萬劫 永住並賜法
意味:永遠不滅な様な億万劫(おっこう) 永遠に仏法の中に住む
最初は全てオンラインの生徒たちに挨拶します,皆様はこんばんはです,吉祥如意 ように祈ります。
(ザシデッレ(萬事如意))
では、今日、その続きから話します。今日の授業は摂類学に関するの授業です、毎週2回でしょ?勉強の時間は月曜日から火曜日に変えたでしょ、では、前回の内容な話を話します。
今回、特別の前行しないです、最初皆に話したいことがあります、過去の二、三日の中、特に部分の地区、香港や深圳や等等大きな風舞い散る、洪水なること、ニュースからみた、この事に関してすごく心配してます、けど地理な環境なため、我らは祈祷するしかできないです、ここの僧侶達も同じ心配している、ですからその地区に大願(大祈祷)を祈ります、これしかできないです、何故なら地理な問題ある、現場に行けないです、見に行けないから祈るの方法しかできないです、ここって現在被害が出ているの地区に大祈祷を祈ります。
最初、もし現在、オンラインで被害を受けたの生徒さんがいるなら、自分はあなた、あなた達の先生として、自分は必ず皆様の為に繊細で祈祷します、けど普段な場は我らは輪廻している、災いな困難や避けることができないから、特に今回の災難が家族や、財物や家や等等の破壊がありなら、我らは仏教徒の気持ちから問題と向かいましょう、他人の為に祈りましょ、"寂天(じゃくてん)菩薩"の『入菩薩行論』(にゅうぼさつぎょうろん)に書いてある、もしこの問題は解決できるなら、心配することは必要がない、もし解決出来ないなら、我らの考え方はその件に作用何がも起きないし、もし解決できるなら、悲しすることは必要無い、もし解決策がないなら、我らが悲し(心配)してもその問題を解決できるな力もないです、だから、我らは普段な輪廻中で災いに遭う時に、我らは仏教徒にとして、心を修心な状況からたくさん考えなさい,そうすると問題は起きたけど更に悪化しません、また更に心身な影響すること、それはすごく重要です、一旦問題が起きた時、解決できるか?できないか?もし解決できるなら、もっともっと方法な上で工夫する、悲しな考え方持たない、その問題と対面して解決します、もし、解決できないなら、我らは解決出来ないときなら、我らは悲し(不愉快)しても方法は改善しないです、我らの心は必ず清いして安静して、どうな縁にも自然に遭うように成る、方法が有れば、考えます、解決します、もし方法がないなら、自然な気持ちで持ちましょう、もしそのような点をできるなら、我らは仏教徒として、修心するで言う人にとして作用を起き出す、仏教徒の修心するの作用を開けます、自分も仏法に少しずつ作用があります。
では、摂類学の続きを話します、前に基成の話しました、基成を分けるなら、"常"と"無常"があります、等等全部は12分類です、前回の話した内容、常と無常、事物と無事、世俗諦と勝義諦、等等、もし、法本から説明するなら、先に無常な部分で話します、"無常"の6個分類、その無常な6個分類の話終わってからと"常法"な分類な部分、全部12個あるでしょ?先に6個話す、次も6個話す、けど自分は違うな方法で解説します、要するに前に話した、"無常"のことでしょ?無常の過程に、細かいところまで話した、先生の本意は法本に従わない、法本は先に6個有為法、後で6個無為法で説明するでしょ、先生はその法が対立するなところで説明する、例えば"常"と"無常"その二つ間な関係は直接相違です、その二つは相対立です、"常"の対立面は"無常"です、無為法じゃない等等、だから、先生はその法則で皆と解説します、要するに"無常"な内容中で事物や聖義諦やとは話せない、直に対立面と話す、つまり"常"です、要は"常"と"無常"配合して説明する、次も"有為"と"無為"配合して説明する。
では,前回は"無常"を紹介した、今日はすぐその法と対立するの法を紹介した、つまり直に相違な法は"常"となります、その"常"な性相をつけるの過程で、皆様は法本と配合してみてください、その中にもある、常な性相は"非刹那性"と"法な同位"です、その中で最初話したのが"非刹那性"です、それは刹那性とは相違です、而も直に相違します、直に対立です、で前回は我々には刹那性の話した時に、法は刹那の間は変更する、その性質は刹那の変更です、その"刹那"もまた"微細(細分)の刹那"と粗分の刹那、等等、その微細の刹那は前にも説明しました、それは指パッチンな時間の刹那が最細分の刹那です、更に細いの刹那に分けることできる、65回の分類、または刹那性は前にもたくさん話した、さっき話の"常"の性相な場は、最初は"非刹那性"です、直に"刹那性"とは相違します、最初の第一条件は"非刹那性"です、何故"非刹那性"か?どうな意味ですか?"非刹那性"は非常穏やかです、しっかりしてる、その中は変わらないの意味が含まれてる、"非刹那"で変更であれば、その性質は穏やかです、もし穏やかな場は必ず"有"な法となります、必ず"法"としてなります、もし存在しないなら、穏やかとは言わないけど、その特性です、一旦"穏やか"で説明する時はきっと"存在"と繋がる、而も堅実で動かないことです、しっかりして(穩固)で有ることです、そのような特色があります、だから、その例をつける時は"非刹那性"です、" 非刹那性"がその"刹那性"でないのことです、そうするとその体性はしっかりしてることです、そうするとその条件下な基に穏やかことできます、だからその性相の説明な過程に、更に一つな条件を加えていく、"法"となります、"法の同位"となります、"非刹那性"と"法の同位"です、ただの"非刹那性"だけじゃない、または"法"でありです、(常)が穏やかことですからだから"存在"してます、だから、その二つな条件が備えます、"常"な性相は"非刹那性"と"法の同位"です。
字面からの意味ならとすごくわかりやすい、"常"の話する時、"常"はいつも(常時起きること)です、而も"常態"非常に堅実です、そのような感覚です、この際は"存在"してるな基にして、これこそ堅いのことが可能です、もし不存在な基な場は穏やかと安定と固定に関係ないです、等等、例えば兎の角や虚空の中な花や等等、これは長期性や常態性や堅い性やに関係ないです、だって本当には"存在"してません、だから、字面から意味を読む時、もし"常"なら人に堅いの感覚させる、だから"存在"することだけは堅い(固い)で読みます、だからその詞句を加えてできます、けど別の分類で、例えばあとからの分類は"非所作"や"無為"や等等、本来、字面からでみると、人に与えるの感覚は必ず存在するな物では無く、非所作な場、"非所作"は非因縁で成ることです、それは因縁から成ることではなくです、そのような話する時に人に与えるの感覚は、それは必ず存在することではなくです、ここって強く強調がこの"非因縁"から成る、そうなると、例えば、兎の角や虚空な花や等等は全部"非因縁"から成ることです、だから一旦"非因縁から成ること"を語るとき、その重要点とか物事は"非因縁"から成ることです、それだけです、だから、必ず存在することではなくです、勿論"非所作"な場なら本来は存在してます、でも"全部(何事も)非所作"なら、必ず存在するではない、例えば兎の角等等、それは"非因縁から成ることです、だけれど"存在"もしませんです、法ではありません、だから字面の意義な強さが違います、"常"は人に与えるの感覚は堅い、固まる、常態です、"非所作"は非因縁から成ることです、だから特点が違います。必ず存在するではない。
けど我々には一つ問題を先に覚えておく、無為法、非所作、無事、で無為な"法"はいらない、無為だけでいいです、ここの訳はもう"法"を加えない、もう足すと存在することなる、要するに"有為"の"無為""非所作""無事"はその三つは本来存在する、だからこそ基成を、基成は存在でしょ?基成や法や等等は存在です、そして基成、法、分類な時は有為、無為、所作、非所作、物事(事物)、非事物、等等の分類、その中には一つな問題を先にはっきりしてください、"無為"な本来は存在です、"非所作"も存在します、で"無事"も存在です、だって基成から二つに分けることです、それら皆は基成の分類ですから、分類な場なら、有為、無為、所作、非所作、事物、無事、それらは基成の分類となりますので、基成なら存在するは当たり前なんです、けど現在な内容は、いまその中で、存在することであれば、必ず存在するではありません、いまの重要な一つが"何事も無為"なら必ず存在するではないです、"何事も非所作"ならも必ず存在するではないです、"何事も無事"ならも存在するには限れない、だけれど、それ(常)は常で御座います、それは皆様は間違いないように注意を払ってください、例えば前にも例として話した、兎の角等等は"非所作"です、而も存在しません、だから、"非所作"なら二つに分けることがあります、例えば、常や等等な常態法は"非所作"です、而も存在してます、でも兎の角は"非所作"で有ながら存在しませんです、そして他の例と結合するもいいし、例えば、瓶や柱や等等をその前に"非"の字を加えてなると"非瓶"と成ります、"非瓶"は元々存在です、たくさんの例で説明できます、柱や等等は"非瓶"です、而も存在します、けど"非瓶"であれば必ず存在とはしません、例えば兎の角等等が"非瓶"でありけど、何故なら、兎の角は瓶ではないからので、"非瓶"です、けど兎の角、虚空の花はも存在しませんです、だから、その内にこの問題をはっきり理解してください、無為、所作、無事、(その三つ)本来は存在するです、けど、"無為"でありなら(是無為)必ず存在するとは限れないです。
次は第二分類です、6個分類でしょ?"常"、"共相"、"世俗諦"等等その三つは本来から存在します、而も"常"であれば必ず存在する、もし"共相"な場なら必ず存在します、もし"世俗諦"な場なら必ず存在します、前な三法みたいに"無為"な本来は存在ですけど"無為であり"(是無為)なら必ず存在するではない、でもその中には区別があります、"常"なら必ず存在する、"共相"なら必ず存在する、"世俗諦"なら必ず存在する、常、共相、世俗諦は本来存在します、もし彼らなら絶対的存在します、それが区別です。
では、いまさっき話したのは"常"です、"常"の例は何があります?実相は何があります?前にも例を挙げた、例えば虚空、そして"四諦"中な"滅諦"、で"異共相"、で"無我"等等、それは皆"常"な例です、それら皆は"常"の実相、その中の"異共相"、異なりの"異"、共通の"共"、相手の"相"そのような詞はあとから心類学ときにもっともっと深く理解する、その名相、異共相、
それ以外、さっき話した虚空や滅諦やも"常"です、"常法"で御座います。
そして前に話したの基成、所知等等これら本来は"常態法"です、"常法"です、それは皆様が覚えて欲しい、基成の分類には"常"と"無常"分けてるけれども、その本来、その字体から、基成な何?基成の本来は"常"です、"無常"ではない、皆必ず覚えてください、その内には"何事も常"な場、"常"もあり、"無常"もあり、字体な本体は"常態法"です、一つな例が挙げる、"基成"なら、基成の場は"常法"もあり、"無常法"もあり、そなると基成な本体は何ですか。その時は我らは"基成"のことは"常態法"として呼びます、何故だか。それ(基成)が分類なとき"無常"な実相もあります、"常態法"な実相もあります、そうなると、基成は何ですか?それが"常"と"無常"の"常"となります。
六法で、基成、所知、法等等、その6個が皆はそれぞれの自性です、または性質で言う事、、、その性質はなんですか?その"常法"です、"無常法"ではないです、その中にはまた皆様が基成は"常法"として理解することか?そうではない、基成の事は本体が大きな枠です、その下が"常"と"無常"に分けてる、では基成の本来な性質はなんでしょうか?その性質は"常法"となります、だから分けてる時に"常"があり、"無常"もあり。
ではさっき話したのは基成等等、基成は本体が"常"です、何故か"常"で呼びますか?分類すると"無常"な分類が現る、または"常"な分類もある、"常"和"無常"そのような分類でしょ?その大前題は基成です、分別すると"常"と"無常"があります、もし"何事も法"な場、"常"もあり、"無常"もありな分類時、その大前題の事は"常態法"となります、その内に例を結合していく、多分もっと分かり易い、例えば滅諦、滅諦なら"常態法"でしょ?けど滅諦の分類中、必ず"無常"は無い、滅諦なら、何事も滅諦なら、きっと"常態法"となります、ですから"滅諦"は必ず"常態法"です、だけどもう一つな場、基成を分けるなら二つな分類となるでしょ、"無常"と"常"どちらもある、だから基成の本体は"常態法"となります、原因か例が二つあります、けどそれは"常態法"の分類が必ず二つ必要ことではない、"常"と"無常"その要求は無い、それは必ずではない、さっきな例で話した、滅諦は常態法でしょ、分類したら,たくさんな滅諦となる、けど滅諦なら全部常態法なる、"無常法"には無いです、此処は、もっとはっきり覚えてください、この問題を。だから"常態法"二つな状況があります、一つはその分類全部が"常態法"です、例えば滅諦。もう一つ"常態法"分類すると、本から"常態法"です、"常"と"無常"があります、例えば基成や法や等等。
次から話す、さっきのは"常"な性相、"非刹那性"と"法の同位"、その二つな条件を備えますよう、"非刹那性"も"法の同位"もありな条件、そして"常"な説明時、その印象は、人に穏やかな(穩固)感じです,とても安定するならきっと存在します、だから名相の本来から暗示します、それは法です、而も非刹那性です、その二つ条件を備えますよう。
そのなると"常"と"無常"の内容は終わります。
次からは"事物"と"無事"です、"事物"と"無事"を配合して話す、"事物"を説明とき、"事物"は何?"名相"か"性相"か?その我らの法本と配合して説明します、我らの法本からと"作用"できる、備えている事、"作用"が備えますのことは"事物"な性相です、もし"事物"なら、それは必ず有る条件を備えますが必要です、何の条件ですか?その性質は何でしょうか?"作用者"として備えます、何か"作用者"の備えますか?その時、我らは因と果と思い付く、因と果の中の"果"です、つまりそれが"果"と作用できることです、"事物"そのような"名相"な定義するなら、["作用者"備えている](作用は作用者が俱有です)であれば、必ず因と果を思い付く、事物な場なら"果"と作用する、因果な果、果には作用ができる、果には作用者なる、それは"事物"で呼びます。
だから、["作用者"として備えます]、で言う事は因な角度から命名することです、この"事物"を性相付ける時、その事な因としている、何のことに作用できるか?"結果"としてに作用できるです、それが"事物"で呼びます,その本体は"因"として使うこと、因果な因、その結果な生まれに関して作用できること、我らは"作用者"備えますの事を了解して、了解する際にそのような態度で理解してください。自分な結果として作用できること、例えば種子、ハダカムギ(青稞)、各な花や、花な種子、撒いた時、その意義はどこにあるですか?その根を下ろして芽を出す、そのハダカムギな果報として、そのハダカムギな結果としてに作用できる、同じ事ご飯作る時、火のこと、ご飯ができる具合に関係あること、例えば煙と火、煙(香)を着けるあとな何が起きる?その後は煙が出てくる、だから、煙の発生な作用なる、だから火は煙な因となる、その煙出ることな因に関して作用できる、だから、事物な性相に関して、我らの本来は、事物を因として使う、そして、"作用者"が備えて、その結果として"作用"になる、これは"事物"で呼びます。
そして前に話した6種無常のことでしょう?分類時、6種違いな命名です、その6種命名に本来は意義があります、何故か有為法を6種を分ける?例えば、有為法や無常や所作や等等、6種の分類、6個有為法と6個無為法、要するに無常です、皆全部同義です、その6種分類があります、その分類には規律がある、何の規律ですか?"因果性質"です、その三種類で分類してる、因、果、性質で分類してる、そのような内容で6種分ける、つまり所作と有為話したでしょ、所作と有為は結果な角度から命名です、所作、因縁な所作、有為無為な有為、次からは"事物"です、さっき話した事物、事物と勝義、さっき事物を紹介したでしょ、"作用者"を備えます、事物と勝義は最初な初点は勝義諦です、さっきも説明した、事物は何でしょうか?その"因"が"果"を生まれるの"作用者"だから、その初発点は"何故なら"(因為)から始まった、だから、事物と勝義諦は"因"の角度から命名です、最後な二つ、無常と自相です、その体性から、その性質から命名です、だから、その6個法は"果"の角度から、因の角度から、と性質の角度から命名です。
5215だから、いまの分類な方式、未来にきっと皆様に物すごく力になりますので必ず覚えておきましょう、そして、さっきも話した無常の本体な内容、"無常"は本質または性質からで命名です、そして"無常"を語るときは因や果やと繋がらない、"無常"を語る時は直に性質と思い付く、どうやって話か?そう体性や、本体な本身な特色です、"無常"ですから、つまり"刹那性"です、人に与えるな感じは性質を触ること、"無常"は因位や果位やとは触れない、直にあの内含と話す、その性質の本身のこと、だから"無常"と"自相"は本身から法な性質を直に強調する。
さっき話したのは、我らはその法を理解する際に、人に与えるのサイドポイント(側重点)が違います、例えばさっき話したな"無常"な場、"無常"を語るときに、直に思い付くの含義を触れる
、そのサイドポイントは"無常"でしょ、要は"非常態"で、変化たくさんある、刹那な感覚、その際に別に結果や因や等等な含義はありませんが、けどここは無常は因じゃないと果じゃないよで説明してる、そう言う事じゃない、もしそうなら皆は必ず同義です、無常は所作です、所作は無常です、皆は互い周遍してるは当たり前なんです、けど我らは字面から理解するな場、そのサイドポイントは違いが判ります、例えば"所作"、すぐ聞くと、"所作"聞くと人に与えるな感覚は因縁所作のこと、すぐ因縁所造な結果に思い繋がる、きっと何か因縁がありながらそのような結果が出てくる、けど所作が因でありなこととは代表してないよ、所作は因でありも果でもあり、だって因と果は互い周遍してるからです、でも我らは理解しに行くときに、そのサイドポイントの含義は区分があります、今の内容も皆様覚えてください。
さっき話したのは事物です、事物と無常等等、皆は同義です、さっきのその中にもたくさん紹介しました。そして宗派と結合するなら、ある違うの解説方法があります、例えば、有部からすると、有部な場なると、彼の分別方式はいまのと違います、彼は事物と基成なりとは同義であるべきことなります、さっき我らは基成を分けることでしょう、事物と無事でしょ?二つがあります、事物と無事、けど有部の観点からと、事物を語る時に、彼は事物な理解には基成となります、基成と事物は互い周遍することです、だから、彼の観点は、いま我ら話したことな観点は、違いがあります。我らが話したのは事物と無常はイコールです、同じ等号な者です、=書けることです、けど、有部なら、事物と基成は等号で書ける。
有部以外に、中観や等等、有部以外の全てな派別、さっき我らが法本の話な通りと一緒です、この基成を分けるなら、二つがあるでしょ、あの事物と無事です、そのような分類があります、でも有部なら全然違います、事物と基成のこと、基成とは同義です、けど有部以上、要は有部以外のは、彼らの観点は法本と同じ事です。
有部の観点から説明すると、何事も存在することは全て"事物"でございます、もし、存在しない事、例えば兎の角、等等、それらは"無事"となります、兎の角や虚空や全部無事となります、だから何事も存在することなら事物でございます、それは有部の観点です。
そして有部の観点から説明すると、我らの四諦中の滅諦、四諦中な滅諦も事物です、けど上部宗なら滅諦は無為法です、つまり"無事"となります、でも有部から説明すると、滅諦は010307"事物"になる、何故か"事物"で言うの?原因が我らは物を認識するな心(気持ち)があります、要するに士夫が滅諦を認識したあと、心から滅諦に対して、心中に滅諦の認知が生まれた、要は滅諦を持ちな心(気持ち)、滅諦持ちな気持ちは何で生まれるんですか?滅諦の本身で御座います、もし、滅諦がないなら、持ちするな心(気持ち)も生まれない、だから、滅諦は何の作用ですか?滅諦は事物です、滅諦は作用がある、何の作用ですか?滅諦は果の形成させるな作用があります、滅諦を持ちな心(気持ち)が何処から来たですか?誰の作用ですか?つまり滅諦の本身の作用です、滅諦の本身は滅諦が有ながらあとその滅諦を持ちな心がある(気持ち出る)。だから滅諦持ちな心、その認知は滅諦との直接な作用です、滅諦のその結果である、それは"有部"が事物な解説となります、彼らは滅諦の事を事物として考えた、何故なら?滅諦持ちな認知が滅諦から引き起こしたことです、だから、滅諦が事物になる、いまその中に有る内容を覚えてください、"經部"以上なら、何事も事物なら、結果を生まれるな可能であり、結果を出来る事、それこそは事物な性質です、必ず結果出すこと必要です、必ず因果な関係があり、必ず結果が出ること、それは經部以上な考え方、けど、有部な場、事物な説明時に、果を出すことは必ずではない、果を生まれること限らないですが、結果の形成を役立つことです、結果な形を作用できればいいです、この本身が因としてじゃなくても大丈夫、本身が結果を少し作用できればいいから、例えば、さっきな例、滅諦です、滅諦の本身が事物、その滅諦の心が誰から押さえた?滅諦ですから、滅諦があって、その滅諦持ちな気持ちが出る、だから滅諦の本身は促進(そくしん)また持ち続けるの心、それだけで10分です、けど經部以上なら、事物なら必ず結果出すが必要です、その因としてなるので必ず結果を出さないとダメ。有部の場、そのようなようにではない、必ずではない、その次の法に促進できるな作用できればいいです、それ、それが有部の事物の説明です。
勿論その中に作用が備えますのこと、その性相は互いに繋がる、有部から応成派まで、作用が備えますことが事物の性相、けど彼らの違い点、要するに作用が備えますのこと、この解説は違いがあります。
つまり、作用者として備えます(俱有作用者)な事、もし、經部の観点から話と、どう話か?果に生まれることを作用者です、その結果出すことに"作用者"です、けど有部は違います、有部の場はある程度の法な形成であればもういいです、けど經部の場なら、事物なら、ただの有る法の形成だけじゃない、結果を発生成り立っていることに作用です、結果を生まれる事に作用することです、それは經部以上です、有部の場なら、法に関しての形成は作用すれば良いです、さっきの例とは、滅諦を持ちますの心、その心が有ればでいい、結果が必ずしも必要ではない、必ず前後の法が因果な関係じゃないでも良い、有部の場は前後の法が因果関係じゃないもいいです、その後者にちょっと作用すれば良いです、前後が因果関係じゃ無いも大丈夫、經部以上なら、果を生まれるまでに作用すること必要です、因として成ること、けどここは因として強調しない、法にとして結果な形成を有る作用だけでいいです、それは有部の観点です。
さっき我らは滅諦と結合した、滅諦は常態法でしょ?有部も同じこと、彼らは"常態法"で思っている、けどそれは事物です、何故なら事物と基成とは同義ですから、滅諦だけじゃ無く、全ての常態法です、有部の観点から説明する、全部事物です、何故なら、我らの心中に認知を生まれる、常態法を認知するの認知が本身の常態法から促進成ることです、けどその常態法と我らの認知するの関係が因果関係ではない、でも常態法の認知することな形成は常態法から促進です、それは常態法の作用です、それは有部が作用の備えます事を対しての解説です。だから、紹介する際に、ただ滅諦だけじゃ無く、全ての有為法や無為法、全ての無常や全ての常や、全て、何で言うか?全ての常は、皆は"常"を認識する為が後生のこと、先に"常" 、あとは"常の心"、だからその心(気持ち)は常から促進してるです、それで10分です、それもう作用者の特点のレベルに着いたです、これは事物です。
いまさっきまでは宗派と合わして説明しました、そして"無事"の性相の話をします、空に作用者は"無事"の性相、空に作用者、この時は真逆にぴったりです、さっきの話、作用者備えますのことと顛倒してます、そして、作用者の備えます(具有)の字を削除してから、空になる、そうなると空に作用者に変わる、それが無事の性相です。だから、さっき話した、事物と無事は本来から互いに顛倒してます、直接の相違です。
その前に空の字を入れると、ちょうど真逆になります、前に作用者に備えます(具有作用者)でしょ?次は空の作用者(空有作用者)とは、要は作用が無いことです、それは作用が無いことです、その意味です。
ですので、前の話と同じ、空の作用者は無事の性相、その際に、空の(有)作用者の本来は存在します、常法である、本身から常法です、だけどもし空の作用者なら、必ず存在するとは限れないです、例えウサギの角等等、何の作用も無いことです、空の作用者は存在しません、法じゃないでしょ、だから、我らは無事に性相を渡す(下す)時、無事の本来な含意、本来に無事なことを強調する、作用者の無いこと、その際に無事で有れば、存在するとは限らない、けど、無事の本来は存在です、無事な性質、無事の性質は常態法です、常です、でも、無事でありなら、存在するとは限らない、勿論その性相な中にも法な字に強調しない、その性相を下すときにただ空の作用者だけで終わり、けど前に常な話する時に、その性相も違います、後に法な字がプラスしてる、法の同位、非刹那性、と法の同位は法の字があります、けど無事の中に、本来から法な字が無いです、空有作用者、だからこそ"無事"なら存在するとは限れないです。
そして、宗派と配合して説明すると前の話と同じです、さっきが話した例、さっき話の例は全て經部以上の観点です、経部以上なら法は事物と無事に分けます、けど有部の観点からと違います、彼らの話は基成と事物は同義です、何事も存在するなら何事も事物です、何事も無事なら何事も存在しませんです、それは有部の観点。
一般義からと、我々の摂類学、主になるな観点は経部の観点となります、経部の観点、どうやってで話すか?共通点が高いな観点です、またそう言うも行ける、摂類学の90%以上な観点は、基本的に区別ないです、特に経部以上、経部、唯識、中観応成派、90%以上は互いに認めるです、共認(きょうにん)してます。10%だけ、もし%で分けるなったら、大体その10%な内容は区別が有ります、其れらの点は印してから説明くる時します、有部は全然違いな観点の話します、でも大体の内容は宗派な内容や意義と配合して説明してます、勿論その中には経部が1番主になるから説明するです、で10%は違いが有ります、それは後から記し(しるし)として説明する、さっきと同じです。
次は所作です、"所作"は字面の意義からで説明すると一目瞭然です、因縁に所作することです、そのサイドポイントは果です、その因縁の中な果です、さっきも話した、有為和所作は果な角度から命名したです、だからその所作に性相を下す時にも明確です、已生(いせい)となります、已生の主に強調することは因縁から生まれたこと、強調する場所は結果となります、もう生まれたこと、因縁にされてから生まれる、その重要点は生まれること、その已生の部分です、何故そうなるか?何の素材になったか?だから、所作のこと、聞いた瞬間に、すぐ因縁に造られたと繋がる、そして初心点が結果となる、結果な角度から推測する、その結果は因縁にされてからの結果です、因縁に作られたです。
所作を得る(獲る)事と已生とは区別が有ります、例えば四諦の中の滅諦、滅諦は獲たことです、修行を通過したあとな第道(その次第な道)に獲る事です、その第道は獲たことです、要するにその背道で造られた、背道で造られた、その言う方はダメです、道を頼って生まれた、その生まれたな生の字と作の字、その字は滅諦には使えないです、何故なら滅諦は本来から常態法です、有為法ではないです、それは有為では無いので、因縁から作られる物じゃないです、けどそれ(滅諦)は獲たことです、どうやって獲たか?修行のことに通過してから獲ることです、でも修行のことに通過してからできたこと(造られた)では無い、何故なら、それは常法ですから。
例えば、花の場、花等等、花は已生で作られたことです、因縁で生まれたことです、それらの花、種や、芽に出てから花に変わります、つまり花のように生まれた、花の種子と水分と土で
造られたことです、だからそれは已生です、または所作です。
そして無常と結合します、何事も無常であれば、全部因縁で成ったこと、因縁な変化でその結果成る事。
ですから、全ての無常は全部因縁から造られたことです、例えば前に話した四諦な時、四諦中にも因果の関係があります、例えば、集諦と苦諦、集諦は因です、苦諦は果です、其れの業果は、前にも話したの業果、悪果や善果や等等、悪な果報と善な果報はどこから出たですか?業の良いか?悪か?から出たです、つまり善業なら善果が産まれる、悪業なら悪果が産まれる、だから、それは善業悪業からで造られたです、集諦も同じことです、集諦は因となり、前に話した煩悩や我執や等等、その因縁等があって造られた、何を造られた?苦諦が造られたです、我らのいろいろな痛苦があり、全て我執や煩悩や業やからその結果成るです、造られたことです、だから、全ての有為法と全ての無常は全部因縁から造られた(成れたこと)、そのうちに、一旦、因縁を語るとき、ただ一つの因だけ制限しないように、それは方方面面(いろな顔)がある、近取因(きんしゅいん)、そして条件因、その方方面面な因があり、多くの因から促進してからその結果成るです、だから果は多くの因から促進に成るです。
次は非所作です、前に話したのは因縁に造られたな所作でしょ。それは因縁を強調してからの果です、そしてちょうど真逆の法とは何ですか?非所作です、所作と非所作はちょうど直接相違です、非所作です、そして"是(これ)非所作"も必ず存在することとは限れないです、所作の本身は存在です、けど非所作は必ず存在するとは限れないです、それはその性相ではっきり見えるものです、その(非所作)性相は不生(ふ‐しょう)(生まれる事が無い)です、その不生なニ字をプラスするけど、後ろから法な字を入れないことです、直接にはっきりして不生で御座います、それは非所作の性相です。
非所作性なら、その範囲は非常に広いです、既に存在しているの常態法も含める、また既に存在しないも含める例えば兎の角等等、範囲は広いです、その字面の意義の本身は非常に明確に述べられている、それは非所作性です、例えば滅諦は非所作である、そして兎角も非所作です、だからそれは範囲は非常に広いです、その中にも法な字をプラスしない、直にはっきりして、"不生"は非所作性な性相です。
前に、我らは話した、無事と非所作等等、もし其れ等なら必ず存在するとは限れないです、それは中の内容いまさっきもっと確認しました、その性相を下す時に、直接にはっきりで"不生"を書き入りする、そして非有作用者等等、法な字はプラスしません、つまり直接にはっきりで了知非所作な場なら、非所作性は必ず存在とは限れないです。
話を元に戻る、三句の話だけがあります、前に話したの三句話、皆さん必ず覚えてください、例えば非所作性、非所作性と結合してからその三句話を語る、第一話は何ですか?非所作は存在します、第二な内容、非所作をわけるなら二種が有ります、存在すると存在しない、その例はどちらもあります、それは第二句です、そして第三句"是非所作"なら、必ず存在するでは限らないです、"是非所作"ならありとは限れない、それは皆さん必ず覚えてください、最初は非所作の本身は存在します、非所作を分けるなら、存在する部分も有る、存在しない部分も有る、それは第二句です、第三句は"是(これ)非所作"なら必ず存在するとは無いです、必ず存在するとは限れないこと。
さっき我らは"非所作"と結合してから三句のこと進めた、その強調する話仕方、皆さんも無為と結合してまたは無事と結合して、やって見て、同じ事です、無事、無為、非所作その三個法はさっきの三句話を必ず足して入れてください、そしてもっと更に練習してください。
けど我らはその三句話を"常"と結合するなら、その三句話が無いとなります、さっきは非所作と結合したからその三句話があります、次は我らは"常"を試してるみます、その三句話と結合するな場違いが出る、"常"は存在するです、それは確認できます。常は存在します、第一話と区別つかないです、常は有ります、それは区別ないです、そして第二個、常は存在すると存在しないなことにどちらも有る、常は有りと無いどちらも有る、その話は成立しない、常なら必ず有りますでしょ、常なら、有りと無いな分類は無いです、だから第二の話は存在しない、次の第三句話も存在しません、常のあれ場、必ず存在するとは限れないな話も成立しないです、常なら必ず"有"です、存在します、だからその三句話をプラスなら区別があります、常と"無所作性"を三句入れるなら区別が有ります、常ならその三句話中第一句の話だけが備え(俱備)ます。
ですから、常、共相、世俗諦その三つは同義でしょ?だから、その前の三句話を使う時に、それらはただ第一句話です、第二話と第三話は不成立です、その常、共相、世俗諦に対してその第二句話と第三句話は不成立です。
次は有為です、前に話した所作でしょ。所作と有為共結果もうあるから命名です、果位から命名したです、結果の角度からです、または同義でもある意味です、有為と所作も同義です、二つ共結果な角度から命名するです、所作は因縁から所作でしょ…有為も因縁でなりな含意です、二つ共そのようにで命名した、けどその中にちょっと区別がある、有為の範囲はもっとはっきり清明的です、所作と比べるなら、所作なら、因縁から造られたを強調するがでもその中に因な特点を強調しません、一つ因ですかまた多くの因で組み立てるか?形成なるか?それを強調してないです、其れを強調する部分は因縁から作られた部分です、因縁のその2字、その因縁に成れた、ただの因縁だけです、けど有為なら、多分チベットな言葉はもっと清明的なる、先生は漢字な言葉はわからない、チベット語なら"トゥーぃちえ"です、"トゥーぃ"は集めるな意味、つまり集めてから成りますのこと、多くの因縁から集めてから成ったこと、そのような含意です、"トゥーぃ"集めたこと、たくさんの因縁でまとまることで成ったこと、形成したこと、その含意があります、で"チエ"と前に同じ、所作でしょ、その中にもう一句足す、"トゥーぃチエ"はたくさんの因縁が集めたから形成成ること、だからその中が強調する事は有為はだだ単個で造られたじゃない、その形成はたくさんな因と縁をまとまるからその結果に成る、だから、その中の"トゥーぃ"は集まるな意味です、集まって成りますのこと、だから、その内容の解説は前の"所作"より清明する、もっと広い成ること、その二つは同義したも…
だから、その中に強調する事が有為ならたくさんの因縁をまとめてから形成成るです、ですから全ての有為法と全てな無常なら、ただ1つの因で成り立つことは不可能です、たくさんの因縁を必要があり、互いの配合して成り立つの結果、だからそれはたくさんの因縁があったからできた結果です、だからその中に強調するのは"トゥーぃ"です、集めるの意味、たくさんの因縁でなったこと、生まれたこと。
時間の関係で我らの授業はここまで終わります、未来な日中に皆さんが良い結果成るを希望します、皆は仕事中、学ぶ中で寛容な心を持ちください、とても心地よい気持ちで学習に直面しまよう、あと仕事も、勿論我らはその学習の機会が獲ること、それは自分の努力してから得ることです、そして悩み事は必要ないです、もし悩み事したら、心の広さが狭くなる、だから学習事もうまく行かない、だから我らは生活中と仕事中、仕事と学習な事以外、心の態度は正しくに置きましょう、快楽の気持ちを持ちください、寛容の心を持ちながら全てに対面する、そうすると心と身にも助かります。
では、最後全ての生徒たちに萬事如意(全てのことをうまくいく)を祈っております。
次の残り三日は意義ありの三日に変わります、全ての生徒たちを学習が進歩する、ハッピーな気持ちで過ごすことを祈ります。
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