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No.18 佛法概要第18講 四諦11

  • 執筆者の写真: Ani Taku
    Ani Taku
  • 2021年12月18日
  • 読了時間: 28分

No.18


佛法概要第18講 四諦11


o 遠離一切罪 布施諸功德

意味:全ての罪と離れて 全ての御利益を布施(与える)する

o 有情唯依親 頂禮一切智

意味: 衆生の唯一帰依 全ての智を帰命頂礼 註:仏教の礼法の一。尊者の前にひれ伏し、頭を地につけ、足元を拝する最敬 礼。五体投地。ちょうれい。「帰命(きみょう)頂礼」

o 法鼓致深音 願斷有情苦

意味: 法鼓(ほうこ)深く届くよう,有情の苦即断ち切る

o 永(無)盡億萬劫 永住並賜法

意味:永遠不滅な様な億万劫(おっこう) 永遠に仏法の中に住む

最初は全てオンラインの生徒たちに挨拶します,皆様はこんばんはです,吉祥如意 ように祈りま

す。

(ザシデッレ(萬事如意))


最初,オンラインにいるの生徒達にザシデッレ(吉祥如意),過去の何日間も皆様が学ぶことが進めように願います,特に皆の修学の方面に前と変わらないで頑張っています,進歩がある。特に修行の方面,進歩できるように祈ります。

今日は特殊の話場所がありません,前行の要求に特殊な要求されることない,そして前の授業の次から説明します,要するに,四諦の過程の流れの滅諦な話,今日主になることが滅諦な内容です,今日は自分普段の学びと結合して,と平時の学修と結合して,できるだけ細かいところまで滅諦を説明します。

前回滅諦の説明した時に,主になること,四つな方面を通過することです,四つ方面は主要なことは滅諦の詳しく述べること,最初は四対立力に通過しりながら罪障(ざいしょう)消滅する,その様に修行は前にも紹介しました,それは第一です,そして第二,第二は禅定(ぜんじょう)通過して、我らの粗分な煩悩を起こさせない,または禅定の智慧に通過してから粗分の煩悩が対治します,それは第二方面です,第三と第四は根拠あるの"無漏道"の方法に頼って,"無漏道"は煩悩障と所知障のその二つ含めてます,無漏道は煩悩障と所知障は退治できます,だから,全部四つ方面で説明しました,四力,禅定、煩悩障消すと所知障消すこと,その四つ方面の内容を語りました。

前回は四つ方面内容の説明で最初話したのは四力,四力の懺悔することに通過して我らの罪障消滅することできます,その中に主になるは罪障のことを指してます,煩悩ではありません,我らが作った悪障は罪障です,四力の懺悔することに通過してから消せることに可能です,その中の消除することは種のことと相当することです,例えば,種が壊れたら,果が感じ無い,実生の芽生えになれない,その道理と同じこと,四力に通過して懺悔を進めてから,その罪障は現れない,特別に強調する,痛苦は感じ(現れ)無い,悪業の結果は痛苦でしょう,だから,悪業を消除してから,痛苦は現れないです,悪業でその結果になることが現れないです,ただそれだけです,滅することは無いです,我らの粗分の煩悩は滅するない,さらに細分なところまで滅することないです,また更に煩悩は現れないです,だから,その主になるの機能は我らの罪障消滅することです,あと我らの痛苦の結果(悪果)は現れないです,ただそれだけです,それは四力懺悔の機能です。

さっきも話した,四力の懺悔を通過して,我らの痛苦を弱くさせることできます,その悪果は減らすことできます,または痛苦を消すことできます,ただそれだけです,我らの罪障の習気(じっ‐け)や煩悩や粗分な煩悩や細分な煩悩や,それは消滅することできないです,それはただ痛苦を消滅するだけです,痛苦の結果だけです,または悪果を弱くまで減らすだけです、それは四力懺悔の功能(こうのう/効能)です。で第二まで着いたとき,禅定の修行に通過して,禅定は世間道でも呼びます,世間な道路,その様な禅定に通過して,粗分の煩悩を消すことできます,粗分の煩悩は現れないようにする,禅定の本来な特色は,欲界のことが粗い浅はかなに見ています,そして憧れは色界と無色界等以上,色界と無色界の憧れことが清浄の法と思います,欲界は粗いの法として見ています,だから,色界と無色界の功徳見てます,その様な修行を通過して,煩悩を消すことできます,特に中の第一禅,第一禅の境界に辿り着いたらその士夫(者)は瞋恚のことは起きれない,何故なら?瞋恚は粗分と細分な分け目無いです,瞋恚は現れないです,それは禅定の功徳です。つまり,その禅定を手に入ったら(得ることできたら)その瞋恚のことは起きれないです,瞋恚は無いです,えっと,瞋恚以外に,貪の部分は粗分と細分を分けています,粗分の貪も杜絶(とぜつ)できます,起きれないです,特別に欲界の貪は無いし,そして,色と身の貪も杜絶できます,避けることできます,起きる事できない,だから,この道路は粗分の貪を避けることできます,起きれないです,消すこと可能です,瞋恚はないです,その世間道(禅定)は内道の学の中心だけじゃない,外道もその功徳があります,だから,粗分の煩悩を対立できます,それは禅定の功徳です,要は我らの第二の内容となります,禅定は粗分の煩悩の対応ができます,現れないようにする,また違う読み方がある,滅諦と呼ばないけど内容は似てる,同じように粗分の煩悩を起こさせない,名前は名称滅(めいしょうめつ),何故なら,滅はたくさんがあります,例えば,滅諦の勝義滅等等があり,そのようなの"滅"なら名称が名称滅で呼びます。

いま話したの第一禅な境界がたどり着いたら,やっと粗分の煩悩が消える,特に欲界の煩悩は滅しました,けど,ここって三摩地(さんまぢ)な本来は限らない,三摩地な境界着いたら、最初は必ず滅することできない,レベル(次第)がございます,三摩地は有るレベルがあります,三摩地を得るばかりとき,それは欲界の過患(かかん/かげん)見える,と色界と無色界との憧れ,この時期の場は粗分の煩悩はまた消えて無い,その三摩地が得るばかりので,第一禅を着いたら,色界の第一禅の時がやっと欲界な粗分煩悩を消滅できる,完璧で滅すること成る,何故なら?欲界の煩悩は9個レベルが分けてます,大,中,小9個レベルがあります.欲界の煩悩は全部は9個ある,そして最初三摩地を得る時士夫は欲界の煩悩の過患が見えます,士夫の気持ちは色界に憧れます,その時また完全欲界の煩悩消えて無い,9個欲界の煩悩消えて無い,彼が第一禅を着いたら,その欲界の9個煩悩,大,中,小9個煩悩,大の大、大の中、大の小で分けて全部9個があります。そして同理に,第二禅をたどり着いたら,ただ欲界の煩悩が消えたじゃ無い,そして第一禅の過患も消した,いまは第二禅だから,そのまま第三禅第四禅着くまで,一回性次回な煩悩を消滅すること,無色界まで,無色界もたくさん分けてます、色界、無色界,これによって類推する,下向きの煩悩は滅する(消える)です、そのようなレベルです、だから、そのような道は"名称滅"として呼びます、滅諦ではない、本当の滅諦ではなく、だから名称は"名称滅"で呼びます。

では、ここって我らが第一禅得ることでは無い、色界に生まれ変わっていくことではない、欲界で人として,その基本な上に三摩地の修行に達成後、もっと一歩進んで修行する,第一禅得ること可能です、一禅証(證)得智、二禅証得智、三禅証得智、四禅証得智等等、全部得ることできます、その時は我らは人間な肉体だけど、世の中の人間たけど、修行することに通過して第一禅証得智得たら,その時、我らは欲界の粗分な煩悩滅するできた、たけどここっては全てな欲界煩悩滅するじゃないです、例えば欲界の我執、欲界の薩迦耶見(さつがやけん)等等の細分な煩悩はまた断ち切れないです、ここはただ粗分の煩悩と離れただけです。


凡人、最初の条件は凡人です、聖者じゃ無い,例えば、凡人として、人間な状態で三摩地の修行してから、あとから我らは一禅證得智、ニ禅證得智等等、では例えば臨終(りんじゅう)とき、また終始一禅證(証)得智が維持している、その状態なら、終始そのような神通が有るなら,そのような神通が備えて有れば、来世の生まれ変わりはきっと色界で生まれます、もし、あなたが一禅まで修行したら必ず一禅の境界に生まれ変わる、色界等等,あなたのレベルによって変わる、そのことは確かにそうです,あなたな条件は凡人です,そして今世で禅定を修行して、例えば一禅證得智、その状態で有れば、来世を滅することできっと色界に生まれ変わります、これは確定です。その条件は自分が一禅まで修行することに壊れないです、終始一禅の状態に維持してる、終始その功德を保つ、終始その神通を保ってな時、後に来世に向いて、亡くなったらきっと一禅地に生まれ変わる,これは確定です。けど、聖者な場なら、必ずではないです、さっき話したのは凡人なこと。

我らの内容は滅諦の話ですが、滅諦の話すには滅諦と似てるな道を認識しないといけないです、ここまで認識しないとダメです、認識によって、後から本当の滅諦に認識することに有利です、要するに混ぜて消える事し無い、そうじゃないと消える事安くなります、さっき話したの四力、懺悔、我らの罪障、粗分の煩悩滅するな罪悪、悪果等等、それは一つな方面、さっき話した、世間道に通過して、禅定のような修行することに通過して、我らの欲界の粗分の煩悩を消去できる等等、これらは滅諦と似てますけどこれは本当の滅諦ではありません、だからこそ最初はそういう内容を理解しないといけないです。

では、滅諦の話するとき、前話したな内容は全部滅諦では無い、本当の滅諦では無い,ちょっと滅諦に似てる、けど、意義の上な本物の滅諦ではないです。じゃあ、本当にの滅諦で呼ばれるのは何?滅諦で有れば、それは必ず煩悩消えて行く、必ず煩悩が消えます、その煩悩は根本から消除します、それこそ滅諦で呼ばれる、そうすると他の法は出来ない、前話したことはただ粗分の煩悩消しただけです,けれど本当の滅諦なら、その機能は、どうやって話そうか、滅諦の特点は煩悩を消す時、根本から抜きますのこと、つまり一つの煩悩を根本から抜ける、全部の煩悩が消えるじゃないけど、皆覚えておく,全部では無いないけど、少なくとも一種類の煩悩消すな種、ただの煩悩ではなく、煩悩は根から抜けてな諦こそ滅諦で御座います、そうすると、我らは唯一無我の智慧に頼りすることしかないです、煩悩が消すこと出来る、根本から取り出す、例えば、無我、無我の本来もたくさんのレベルを分けてます。例えば我々の分別識を運用して、無我の智慧で了解しても足りないんです、必ず我々の"現量"を使いながら"無我"の了知できる、その智慧が揃ったら我々の煩悩に消すこと出来る、その煩悩は細かい分ける出来る、例えば、"貪"または"瞋"と"我執"、けど必ず"貪"を消すこと出来るのベースがあり、根から抜き取る(消去)、もし、滅するのことが"瞋"なら、それは必ず細かいな瞋から分ける、根本から瞋を取り消す、または根本から我執取り出す、けどその中なら、滅諦の場、全ての悩みが消滅するではないです、そのような功德になるとは限れない、けど少なくとも一種の煩悩を根本から抜け除くことです、だから、前に話した世間道、世間な道路はただ粗分な欲界の煩悩を消すこと、けどそれは細分な欲界の煩悩を消す出来ない、滅諦なら、一つな煩悩を根本から抜け除くことが必要です、それは"滅諦"で呼びます。

そして、滅諦の場なら、一つな問題をクリアしないと行けない、前話した"根"のことな時に、どうな悩みな根部で覚えてください、例えば、前にも話した、欲界の煩悩を九個分けてあげる、大、中、小、大また三つ分ける、大中小、例えば欲界の煩悩な第一、第一は一番粗分の煩悩、大となります,大な大です,大な中、大な小、もし消滅なら、前話の世間道な禅定なら、世間道の根拠するなら、ただ大な大を消滅した、粗分の煩悩消滅しました、けどその中に滅諦の根拠するなら、滅諦なら、例えば粗分の煩悩は九個があります、粗中細、粗の大、粗の中、粗の小、そして"粗大"な煩悩が消滅した時、粗大に慣れる(じっ‐け(習気)/薫習くんじゅう)二つに分ける、粗の煩悩は本来から二つ煩悩分けてる、それの薫習は二つに分けてます、要するに粗分の薫習と細分の薫習です、その際は世間道は粗分の薫習と細分の薫習を消除できないです、けど、滅諦なら、滅諦に根拠するなら、最初滅諦なら、その機能は粗分な薫習を滅すること出来る、もし煩悩の最粗分の薫習が滅するなら、滅諦として呼びます、そのような功德は世間道に備えないです、皆覚えてください、粗分な薫習と細分の薫習に分けてあげる、粗分の薫習は我々が一旦滅諦得ること出来るなら、滅諦は薫習から分けてあるな粗分と細分、粗薫習は消すことは可能です。

では、そうすると、我々は無我の智慧と接触します、でも、何故"無我の智慧"の学びが必要ですか?前にも多数に話した、原因か我々の痛苦を消す為です、一切な痛苦は我執です、だから、我執と対立するの法則な方法は無我の智慧です、無我の智慧だけは我執を消滅すること出来る、それも前にも皆話した、多分皆は覚えてる、そのような内容。今な時、我ら他の煩悩は掴まない、我執だけ捕まってしよう、我執を掴んで、それは一切な痛苦です、だから、我らの法則は一つだけです,無我の智慧となります、無我の根拠してながら我執を消滅する、そうなると、我執の消滅、前に欲界の煩悩を九個分けてますでしょ、大中小、大は粗中細が有って、中も粗煩悩、中煩悩そして細煩悩があります、そして小も同じです、粗中細があります、だから我執は九個の我執に分けてます、我々には消除することは我執でしょ、だから、我執の煩悩は九個の悩みがあります、要するに大中小です、大ならまたは粗分な我執にある、で中等な我執、で細等な我執、そして中我執も粗中細に分けてます、で小も粗中細を分けてます、そうすると我々の相手は何?我々は煩悩の消除です、消除時は我々は粗分から細分までに消除します、そのような次第があります、煩悩消すな際に消しやすいのは、滅する安いのはその粗分な方です、で比べると対応難いな細分の方、それはちょっと我々が洗濯物のこと、洗濯とき、その粗分汚れは簡単に洗える、でも、非常に細小の所は洗いにくいです、そのようにと同じ通りです、だから、我々は煩悩な退治する時にもそれと同じことです、その内、九種の滅諦に現れて、我々いま滅諦の話してるでしょ、例えば我々は我執を九個分けてから、最粗の我執、大中小な大、大また粗に分けて、それは最粗、最大な煩悩を消したら、我らはある滅諦得ること出来る、最粗の煩悩消すこと出来るな滅諦に得ること出来る、その通りに推理していく、全部九個があります、そうすると、一旦最粗の我執消すこと出来るな滅諦得ることなあと、同時に最粗の瞋恚も消除します、最粗の貪等等、だから、我執を対治するな法だけに根拠すれば良いです、一旦中等の我執を滅するな後、その中等我執を滅すること出来るな滅諦得ること出来る、その時、同時に中等の瞋恚心滅すること出来る、中等の貪等等、要するに全て中等の煩悩等皆消滅します、だから我々の方法は一つだけです、要するに我執の消滅です、我執は九個レベル分けてあげる、粗から細まで、一旦それぞれの各セクションな我執を消したら、その他の煩悩、例えば、何で話か?さっき話したな瞋恚心や他の焼きもち等等、その相当の煩悩や皆は粗分の我執に付いて消滅する、一緒に消滅します。

だから、我執を対治するな法が煩悩を対治するな法です、でもその中、煩悩は所知障では無いで分かってください、あの煩悩障と所知障な二つ中の煩悩、ですから、煩悩を対治すること出来るなら、全ての煩悩を対治すること出来るです、ここって強調してるのは全てな煩悩です、さっきも話した、我執は九種に分けてあげる、そうすると、もし一種な煩悩が九個分かること出来るなら、我執の消滅によって、九個レベル中な任意消滅したら、と他の煩悩も九個レベルに分けることできるなら、それなりに似てるなレベルな煩悩は全て消滅すること出来る、さっき前な話と同じ、粗分の我執を消滅したら、粗分の全てな煩悩は消滅なる(全ての粗分悩みも一緒に消滅となります)。

さっき前にも話したな我執は九種の我執で分けること出来るでしょ、最粗分の我執は最初大中小に分けて、大なら粗中略に分け、一番前、最粗分の我執、その最粗分の我執が消滅したら、一つの滅諦得ること出来る、一つ種の滅諦、その種の滅諦は何で言うんですか、最粗分の我執を消去するな滅諦です、そのような滅諦、そのような滅諦はただ最粗分の我執の対治だけしゃない、それは一つだけな方面、それ以外、その滅諦は最粗分の我執な薫習も消去すること出来た、さっき我々は薫習を二種がありでしょう、粗分の薫習と細分の薫習、さっき話した最粗分我執の薫習な細分と粗分、最粗の我執の薫習な細と粗で話した、その中、さっき話した第一な滅諦、その滅諦は最粗分我執を滅するな同時にその我執の粗分の薫習も一緒に滅するなりました、その際に一つ種の滅諦得ることとなります、そのような滅諦何で呼びますか?斷除所斷的所離(所断が断じてな所離)何を断じてですか?所断を断じた、その粗分の煩悩を断じた、最粗の煩悩です、断じた後一つ種の法を獲ることなる

、名は所離です、所断を断じてな所離です、所断の所離、その法は何?有為法か?無為法か?それは無為法となります、その法は何処にあるんですか?その法は士夫の相続に在る、士夫の相続に所断を断じてな所離を獲ること出来るです、それこそ滅諦です。滅諦の一つ種です。

では、いま話したのは最粗の我執でしょう?その我執は九種の我執を分けてます、その通りに推測して、中等の我執また3つ分けてます、粗の部分、そして中の部分、次は細の部分、そのように推理する、で最後は最小まで辿り着いて、最小な煩悩また分けてます、また粗中細で分けてます、そして最細微(さいび)な煩悩が断除(だんじょ)してから、そのときからやっと涅槃を獲ることとなります、ある一つ種の滅諦得ることとなります、この滅諦はただの滅諦では無い、イコール涅槃を獲ること出来たです、つまり全ての煩悩を消滅した、最細微の煩悩を滅することしました、この際、もし、士夫は小乗道な場、声聞地と付いているなら、彼は阿羅漢の境界を獲ることとなります、もし、彼が独覚(どっ‐かく)な場なら、独覚の阿羅漢の境界を獲ること出来る、そしてその時こそ阿羅漢で呼びます、同時に涅槃を獲ること出来る、そして前の九種の粗分中に得たの滅諦なことなら、涅槃とは呼ばないです、それは粗分の煩悩を消滅しただけです、粗分の我執だけです、ただの一つ種の滅諦得ることだけです、この時点で涅槃とは呼ばないです、だから、それが九種の煩悩な最細微の煩悩を消す時阿羅漢の境界また涅槃も得るとなります。

そうすると、滅諦と涅槃との間は何の関係ですか?その三句の関係で存在してます、もし涅槃なら、必ず滅諦で御座います、涅槃でありながら滅諦じゃないな例は無いです、涅槃であれば必ず滅諦です、涅槃は滅諦を周遍します、けど滅諦でありながら涅槃となるとは限れないです、さっき話したの我執な話、煩悩を九種に分けて、九種煩悩の中な第八個の煩悩、その第八煩悩の以下の煩悩、あの12345678、その煩悩を断じてからある滅諦得ることは滅諦でありけど涅槃では無いです、何で涅槃ではないか?原因か全ての煩悩また消去してないです、それらの全ての煩悩を全部消去したら、イコール阿羅漢です、だから阿羅漢以下の煩悩な876等等、滅するしたら、その滅諦を得ることが滅諦です、涅槃では無い。


だからこそ、滅諦と涅槃は区別があります、涅槃な場はチベット語の呼び方は"やっでぃ"意味は痛苦を離れること、涅槃なら必ず一切痛苦と離れること、もし小乗道の場なら、小乗の阿羅漢なら、彼は全ての煩悩と離れることが必要です、そうすれば全ての痛苦と離れること出来るです。

チベット語の呼び方は"དཔེ་ཡག་པོ་འདུག།(ヤッディ)"、ここ訳は悲し、キツイはそのような通訳はダメです、涅槃な意味は一切煩悩を消去することです、一切な煩悩を消去して、一切な煩悩と離れること、それで涅槃で呼びます、けど一切痛苦とは言えないのです、原因か阿羅漢は二つが居ます、有余阿羅漢と無余阿羅漢二つ、有余阿羅漢なら終始漏らすの(有漏)蘊が備えます、だから、終始痛苦があります、有漏の阿羅漢なら終始痛苦があります、でも彼は煩悩と離れてます、だから、いまの中な意味は一切な煩悩と離れってことです、もし、小乗道の場、一切な煩悩と離れることです、もし独覚の場、独覚と関わるの法なら離れてます、だから,ここってな涅槃は一切な煩悩と離れることです、もし、大乗の場、あの何でいう?か、あの聖になる者は、仏の境界を得ることな方は、彼は全ての所知障と離れること、煩悩障だけじゃ無い,だから、この中は全ての煩悩と離れることです。

そうすると涅槃は三種を分かれすること出来る、声聞、独覚と仏の涅槃、声聞の涅槃を得ること時イコール阿羅漢の境界となります、で独覚の涅槃を獲ること時にイコール独覚の阿羅漢を獲ることとなります、次は大乗の涅槃を得る時はイコール仏の境界を獲るとなります、だから、その三種の道は三種な涅槃があります、けど前に話した、滅諦なら必ずでは無いです、滅諦ならただある一つな煩悩を消した、またはある痛苦を消した、ある煩悩だけです、涅槃なら全ての煩悩を消去すること必要です、だから、滅諦と涅槃が区別します。

では、範囲からで話なら、滅諦な範囲は広さが多いです、原因かさっき話した三句な関係が存在して、だから、涅槃な本来は滅諦な一部であります、けど滅諦獲ることな場、全ての煩悩を全部消す必要がないのです、任意な煩悩消したらある似てるな滅諦獲ることとなります。


そして、いま話したな煩悩は(俱生(くしょう)煩悩)から分別してるです、一般の煩悩は二つに分けてます、遍計(へんげ)と倶生です、遍計煩悩と倶生煩悩です、倶生煩悩なら、九種に分けてます、けど我々は倶生煩悩を対治する前に先に遍計煩悩を対治しないといけないです、遍計の煩悩を対治したら、そして倶生煩悩を対治します、倶生煩悩は更に消去するに難しいです、倶生煩悩は九種に分けてます、遍計の場ならそのような分類はないのです、遍計ならそのような分類は無い、その話し方は無いので。

そのすると最初は消除するな煩悩は何ですか?遍計煩悩で御座います、倶生煩悩ではありません、では遍計煩悩を消滅したら、その基礎な上に倶生煩悩を消すことします、じゃ、いつから遍計煩悩を消すですか?その際、我々が我々の"所断"二つに分かれて行く、名は"見所断"と"修所断"、その二つ、"見所断"と"修所断"、つまり我らは"見道"が根拠として"遍計煩悩"を消滅する、五道の中の"見道"です、"見道"は"遍計煩悩"を消滅することできます、では、もう一つなレベルに昇る、"修道"な際、"修道"時からその九種煩悩を対応(面と向かって)します、その我々の"倶生煩悩"を消滅します。

さっき我々は"倶生煩悩"を九種に分けて、大中小、で粗中略、大の粗中略し、中の粗中略し、小の粗中略し等等の九種煩悩、そして、我々はいつから最粗の煩悩と対面するか?九種分類するな第一です、大の煩悩な粗、粗分な煩悩です、その際に、我々は"修道"な根拠に基づいた(もとづいた)修して、その方法しか頼りない、九種煩悩の消去することできます、九種煩悩の第一個最粗分な煩悩です、だから、一般的"道"には一般的な"五道"に分けている、"資糧道"、"加行道"、"見道"、"修道"、"無修道"、では"見道"は

九種煩悩の対治にはできないです、その任意にはできないのです、そして"修道"に到着に着いたら、初めて、その"修道"に着いたときから、その時から我々は初めて"倶生煩悩"と対面する、九種倶生煩悩の第一、その大煩悩の粗煩悩を対面している、だから"見道"以下はできないのです、"見道"以下の対治は"遍計煩悩"しか出来ない。

さっき、我々は"見道"、"修道"なこと話した、その内容はその前に"道諦"な範囲となります、それ後ろからゆっくりで話す。

その互いの関してな問題について、関連性は非常に高いので、その後で"道諦"な話する時、直に"滅諦"の理解な力になります。

ですので、煩悩の種を消す時に"見道"を得ることが必要です、"見道"以上であれば、煩悩の種を消すことできます、ではさっき話した、煩悩の習気(じっ‐け)は本来は二つに分けてあるでしょ?粗の習気(じっ‐け)と細の習気、粗分習性のもう一つ呼び方は"種子"で呼びます、煩悩の種のことは煩悩の習気のことと相当になる、粗分の習気です。煩悩はニ種あるでしょ?粗分習気と細分習気、だから、煩悩の種を消したいなら、つまり粗分の習気で有れば、聖になるの者達の境界を獲ること出来たら、やっと煩悩の種を消滅するな方法ができた、そうなると、いつ聖者に変わるですか?我らの"五道"中な第三道"見道"以上の者は聖者として呼びます、聖者なら煩悩の種を消滅することできます、煩悩の種もたくさん区分があります、例えば"遍計煩悩"の種子、"倶生煩悩"の種子等等、だから、煩悩の種子を消すなら自分な現量が空性を了知するべき!自分の現量が"無我の智慧"に了知出来ること、煩悩の種子を取り除く方法があります、現量で無我の境界を了知すること、その聖者の道に獲ること、その見道に獲ること、その三つは同じ内容です、いつ聖者で呼びますか?その現量で"無我の了知すること"こそ聖者で呼びます、そのようなプドカラ(士夫)は"見道"を獲ることと同じです。五道の中な見道。

そうなると、我らは教派と結合してから話できます、つまり中観自続派以下、中観自続派も含めて、と有部、経部と唯識等等、それ達の観点から見ると、"遍計煩悩"を消すこと、何の"遍計煩悩"消す為に消すことは"空性"ではない、"空性"は更に高いなレベルですので、それ達の"遍計我執(遍計煩悩)"は"独立実体我"となります、"独立実体我"を消滅すること出来たらイコール、何で言うか?"遍計我執"消したことと相当のことです。

ここってもう一度明確に言う、中観自続派以下なら、何よりも"遍計煩悩"消したもいいし、または"倶生煩悩"消したもいいし、どちらも関係なしでただの一つな智慧を根拠すれば良いです、そのような智慧は何ですか?"無有独立実体我"です、そのような智慧だけで足りるから…一旦自分が無有独立実体我"の智慧が備えたら、勿論現量のまま、現量で了知する、その無有独立実体我の智慧を了知出来たらもう十分です、"空性"は必要無い等等、それは"遍計我執"と"倶生我執"な消滅することな場。

それは何故ですか?根を測るまでもないで"空性"なことがありません!そして、中観自続派と唯識派は"空性"な智慧は認可してるけど、煩悩を消す、煩悩を消すなら"空性"な智慧は必要無いと思って居ます、ただ"無有独立実体我の智慧"頼ってだけで足りる。

だから、中観自続派と唯識派の場は煩悩障を消す時、"空性見"は必要無いです、"空性見"必ず必要ではないです、この中に選ぶの道は違い、区別がありです、例えば、ある士夫(プドカラ)は声聞(しょうもん)道または独覚道(どっかく)選らんったら"煩悩障"を滅する時に"空性見"は必要ない、"無我独立実体我"な見解だけで十分だと思います、彼らは"無我独立実体我"の智慧を頼ってながら煩悩障を消滅してと滅するして、声聞(しょうもん)道、独覚(どっかく)道、同じ事、その智慧だけ頼ってながらも十分、だけど一つな情景があり、例えば、その士夫(プドカラ)が入る道は小乘な道じゃないなら、士夫は入る道路は大乗な道路な場なら、その際、彼(彼女)は"空性見"必要です、いまさっき話したのは中観自続派と唯識派です、その以下なら根を押すも空性を認めないからでしょ、そして中観自続派と唯識派はその士夫は入る道路が大乗な道なら、ここって強調するのは、その士夫は最初から入る道路はもう大乗の道です、彼(彼女)は小乗の道には経験したことない、その阿羅漢の境界には経過したことない、あるな例は小乗の境界を経過したことある、次は大乗の道で修業することも居ます、けどいまここって話したのは小乗な道路の経験したことない、で彼は初めてから大乗の道に入る、その士夫らはゆっくりゆっくりで修行してるで、彼らは"空性見"を必要になる、"空性見"持つ為は何故だか?"空性見"彼らにとって、最終的に仏の境界を獲る時、大乗でしょ、大乗の修行する時、五道の過程に彼らは"空性見"を必要です、そして、その"空性見"を頼って、後の仏な境界から得たとき、最後の無修道な境界な時、彼はニ障を同時で消滅した、つまり一回性で消した、その煩悩障と所知障です、一回だけで消滅した、そして彼は一歩進めて仏の境界を獲ることです、だから、その時は彼が根拠するの智慧は何ですか?彼は"空性見"を頼ってながら一回性で煩悩障と所知障消滅した。

だから、士夫は最初の入る道は大乗の道路な場、小乗の道を経験したこと無い、その士夫は煩悩を更に消滅するな過程に、障碍を消滅する、消滅な過程に、主になるの障碍は煩悩障な消滅です、所知障な消滅するではない、彼は憧れてるの境界は仏の境界です、阿羅漢の境界ではない、だから、主になるな障碍は煩悩障です、所知障ではない、だから、彼は"空性見"を(根拠として)頼ってながら"所知障"消滅します、それは前と同じ事、例えば"所知障"なら、二つな所知障と分けてます、遍計の所知障と倶生の所知障、一旦遍計の所知障が消滅できた時、同時、遍計の煩悩障も消滅できた、一旦彼が"倶生所知障"消滅する時、同時に倶生の煩悩障が消滅します、彼(彼女)わざわざ煩悩を消すことしないくでも大丈夫、彼ら主ななるな境界は憧れているな仏な境界ですから、阿羅漢の境界ではないです、だから、彼は"空性"な智慧が必要です、空性だけが所知障消滅ですからです、けどこの中な話はその"遍計所知障"を消す時に、同時"遍計煩悩障"消滅した。

でも、中観応成派なら違います、前の見解とは違います、中観応成派なら、阿羅漢の境界もいいし、独覚の境界もいいし、仏の境界もいいし、

何の境界があってどうか…全て"空性の境界"が必要です、ただ"空性の智慧"だけは煩悩障消滅することできる、あと所知障、だから、全部"空性"が必要です、ただの所知障だけじゃない、煩悩障の消滅も"空性見"が必要です、それは前と違うところです、原因か前話した中観自続派の場、彼らが思っていたな"法我執"と"実有"のこと等等は"所知障"として思って居ます。けど、中観応成派の場から見ると"実有"と彼らが思っていたな"法我執"全部煩悩障です、"所知障"ではないで思って居ます、だから"空性の対治"は皆必要です、大乗小乗を問わず、全部"空性"が必要です、"空性"な根拠として、煩悩障を消滅します、あと後の所知障(消滅)、だから、中観自続派が思って居たな"実有"と"法我執"、彼らが思って居たの所知障は、中観応成派から話なら全部"煩悩障"な範囲となります。

いまから、滅諦の分類に戻ります、滅諦の分類は全部七個滅諦があります、これはただの分類だけです、例えば、第一個滅諦は、その中な第一滅諦は"名称滅"です、"名称滅"は本物の意義の滅諦では無い、さっき話した、世間道は禅定を頼りだから得たなこと、粗分の煩悩消すこと、それらの名前は"名称滅"で呼びます、その七つの滅諦の中な"名称滅"です。

"無著菩薩"は"集論"なかもう立ってる、中に滅諦は七つ滅諦があります、けどツォンカパ(ཙོང་ཁ་པ་ Tsong-kha-pa、1357年 - 1419年)大師は全てな例には同意しません、すべての分類は本物な滅諦ではない、けど"無著菩薩"は"集論"な中、彼は滅諦のことを七つに分けた、最初その中では"名称滅"です。

で次の第二の滅は"勝義滅(しょうぎめつ)"(世俗諦の勝義諦)です、"勝義滅"こそ本物の滅諦で御座います、何の名が"勝義滅"ですか?無我の智慧を基(根拠)にして、つまり"現量"に通過してから、"無我"を理解したこと、そのような智慧が任一の煩悩な種を消す、それこそ"勝義滅"で呼びます。

"勝義滅"ならある要求が備えます、"現量"使って"無我"な智慧を證する、それは第一です、で第二は?第二は任一煩悩を消すこと、何のような煩悩ですか?煩悩の種子です、さっき話した、一般の煩悩の習性は二つに分けてある、要するに粗の習性と細の習性、粗分の習性は煩悩の種子で呼びます、だから、もし本物の"滅諦"の場なら、任一の煩悩な悩み種子を消せれること、それこそ"勝義滅"でございます。

そして第三の滅は"悉未圓滿㓕(しみえんまんめ)"で呼びます、未来の未、何が"悉未圓滿滅"ですか?その滅諦ならただ任一の煩悩消す、全部の煩悩は消して無い、消除してない、任一の煩悩を消すの滅諦は"悉未圓滿滅"で呼びます、そして"悉已圓滿滅(しいえんまんめ)"です、つまりもう圓滿です、すべて煩悩は消したです、阿羅漢の境界が獲ることです、その"悉已圓滿滅"は第四個の滅です。名称滅、勝義滅、悉未圓滿滅、悉已圓滿滅。


そして、次は第五個と第六個は有余滅と無余滅

です、つまり"有余涅槃"と"無余涅槃"です、有余涅槃な意味は一切な煩悩は消したけど、終始に輪廻な五蘊が備えてます、また世の中生きている際、その痛苦の蘊が具備(くび)する、彼(彼女)は心は離れていくけど終始に蘊が具備する、我々の五蘊ですね、それは"有余涅槃(うよ‐ねはん)"で呼びます。"無余涅槃(むよ-ねはん)なら全ての有漏取蘊(うろしゅうん)と離れている、全ての煩悩も消除しました、これは"無余涅槃"で呼びます。

そして、第七個は"無所住涅槃界(むしょじゅうねはんかい)"は仏の境界となります、もう煩悩障と離れてます、所知障も離れてます、輪廻にも住んで無い、静寂の辺縁にも住んで無い、原因か所知障と離れてますので、輪廻にも住まない、静寂にも住まない、そのような境界なら仏の境界で御座います、二障と離れてますのこと、そのような涅槃は"無所住涅槃"です。

さっき話したこと全部は七個の滅諦です、全部七個話した、七つの分類です、それ以外にまた九種の滅諦があります、と11種の滅諦等等、前にも話した9種11種な滅諦等等、けどさっき話したな内容は七種滅諦のことです。

先生がいま話したの"七種滅諦"な中に"名称"以外、残りの六種は全部意義の上通り本物の滅諦です、で"名称滅"は本当の意味あるな滅諦じゃない、ツォンカパ大師は"金鬘書(論)"中にちゃんと解説してある。

時間の関係で滅諦の授業はここまでです。さっき話したの七の滅でしょ?七個の滅の内容と含意を紹介しました、けどこれより細かいな細節は皆で討論してください、例えば、七種滅の内部な関係は一か二か、その間な関係は三句やまたは四句な関係ですか…等等、それらを生徒たちに各別で討論してください。

今日の授業は滅諦に関与します、滅諦な本来は複雑で少し難しさレベル高いので、多分今日の授業は皆様にとって難しいなります、けど皆様は難しいだからこそ自分は多分理解できないのことを思わないで欲しい、その深層次の仏法は自分は理解できないで思いしまい。絶対諦めないでください(落胆しないでくださいまたはどうかがっかりしないでください。)きっと皆様は理解できるようになるから、けど我々にはこのいまな授業だけ繰り返して学ぶじゃないダメ。


そして、理解に難しいの場は二つな原因かあります、第一、先生自身はあまり仏法は理解して居ません、そして説明仕方も間違えた、だって本人もあまり詳しくないのですが、東の方に話しして、西もちょっと話して、自分も層次ない、もっとはっきりな認識も無い、彼らからの話はきっととても難しいです、それは一つな状況。第二状況は仏法の法、彼は凄く細かいところまで説明してる、たくさんの名相と関与して、繊細になる、その時は弟子達は難しいに思われる、その二つなバッタンがあります、第一か第二、自分な希望は第一ではないです、さっき第一や第二やどちらのレベル、自分は多分第一な仲間では無い、自分は勝手に思って居ます、笑笑、それは一つな方面です、勿論仏法の本来は相当難しいです、ですから、仏様も大蔵経を話したです、百券くらいある、論著な大と小合わして全部220くらい等等、もし簡単に理解できるなら、そこまでな論著は作らないもいいし、等等に必要がない…仏法の本来は本当に難しいです、特に修行するなら更に難しいです、だから、仏法の学びときは、最初の支度や準備が必要です、仏法は簡単ではないです、細かいな層面(そうめん)までに理解すること不可能位難しい、だから、ある用意をしといて下さい、必ず準備をしてください、これはすごく大事です、勿論、我らの堅持(けんじ)はすごく重要である、必ず難しいだから勉強したいくないな気持ちにはなっていけないのです、堅持な気持ちは必ず必要です、一旦堅持して、一年、二年後、ゆっくりしてその名相を理解できる、後からきっと皆も難しいとは思えないんです、何故なら、二年や三年に、大体な名相を学んで理解したから、そうの後は三年四年五年後も重複同じな過程します、最初第一第二年の名相多分多い、けど後にも同じ名相と句で繰り返しているので、その時ならきっと皆様も簡単で感じます、だから、皆様は必ず努力してくださいたくさん学びしてください、学習の堅持は重要です、では今日の授業は時間の関係でここまでです、後日には皆様の学習と修行をもっと進歩して祈ります。じゃあ全ての生徒達に吉祥安楽、ザシデレに祝福(しゅくふく)しています。


ザシデレ 吉祥如意


 
 
 

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